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  • 三遊亭圓生のことば

    久々の「裏管理人」でございます。これまでは、氷見に来た時にのみ、このブログを乗っ取って更新していたのですが、micchoが26日に書いたブログの記事を見て、ふと、先日亡くなった五代目三遊亭圓楽の師匠である、六代目三遊亭圓生のエッセイを思い出したので、かいつまんで「抄録」という形で以下に載せておきます。話題の中心は、まさに「おあし」についてです。

    こういう言い方はおかしいかも知れませんが、最近は本当の馬鹿が少なくなりましたですな。どちらを見ても、どうも小利口なやつばかり多くって、つまり、今のお若い人は「おあし」のことばかり先に言ってね、銭を取ることを先ず先に考える。じゃあ、お前達はどうなんだって言われると、わたくしどもも若いときはやっぱり貧乏してましたから、早くお銭(あし)を取りたいと思いましたよ。そりゃあね、誰だって同じで、金は欲しい。

    でも、あたくしなんざ「金が欲しい」なんてことを言うと、こっぴどく叱られたもんです。「金なんてものは、芸が出来りゃ、黙ってても向こうから払ってくれる。そんな拙い芸で銭を取ろうったって、無理だ」言下にそう言われた。

    ところが、いまの若い人は、「芸なんぞべつにうまくならなくたって」てんで、手っ取り早い僥倖ばかり狙って、コツコツという感じの本当の勉強をしようとしない。 そんなことは面倒くさいんでしょうな。何をやってもいいから、とにかく銭を取ることを狙う。「銭さえ取ったら、それから後に、ゆっくりと勉強が出来る」という考えなんですな。

    あたくしなんかも、やっぱり若いときはそう考えました。どうしてこんなに貧乏しているのか、それがいやだったですよ、貧乏が。金が出来て、もう少し楽になったら、 もうちっとましなところへ行けるだろうし、後顧の憂いもなく勉強も出来るし、うまくもなれるんだ。そう思ったものです。ところが、現実には金が取れない。 しかし、よく考えてみたら、金を取れないほうがいいんです。何故かってえと、貧乏しているといやでも芸をおぼえるからです。現実に金がなけりゃ、結局、どうしようもない。勉強して、何とかなるよりしようがないから、それでやむを得ず勉強をする。

    あるとき、若い噺家が、「師匠の言う芸というのは、下からだんだん積み重ねてゆく、いわば頂点をきわめるのに、一段一段、階段を下から上がっていくようなものな んでしょう? あたしは頂上へ行くのに、そんなことはしないで、エレベーターで上がるように、すうっと、一気に上がりたいんです。一度上がってしまえば、たとえ悪くなっても、下がるときには、徐々にしか下がらない。そのほうが得でしょう」とこう言う。

    一度得た地位を維持できなくてもいいから、ともかくパーッと上がって、早くお銭(あし)を取りたいと言うんです。合理的といえば合理的。つまり、金銭の勘定だけからいえば、利口ですよ、その方が。人気が出たとき金を儲けておいて、その金でアパートでも建てておく。そうすりゃあ、家賃のあがりで、あとは生涯、十分に食っていけるじゃないか、といういうんですが……、しかし、芸人としてこういう考えは、あたくしははなはだ情けない料簡じゃないかと思う。あたくしどもは芸が好きで、それをやりたいから芸人になったんですからね。アパートのあがりで食うんだったら、旅館かどこかに奉公して、金をこさえてやりゃあいいんですよ。

    あたくしはやっぱり、乞食をしてもいいから、生涯、自分がこれと目指した業を続けて、それでめしを食うってことの方が立派な生き方じゃないかと思います。家賃のあがりで食うなんてえのは、それはもはや、おのれの初志とまるっきり違ったことをしてるわけなんですから、これほどみっともないことはないんじゃないか…… たとえお客の質が変わっても、いいものはいいという、こりゃあ変わらないだろうと思います。いかに世の中が変わったって、拙いものがよくっていいものがだめだという、そんな時代が来るわけがないですよ。食うものにしろ、着るものにしろ、芸にしろ、やはりいいものはいいんで、これはいいからだめだ、なんてえのはありません。

    ですから、あたくしには、いまの若い人の考えというのは逆だという気がしますね。世の中、銭勘定だけじゃだめだってことに早く気づいて、ある意味での危機感を持たないと、落語という芸そのものがすたらないとも限りません。

    落語なんて、つまらない単純なもののように思われていますが、ちゃんとした歴史と伝統があるんですから、どんな時代になってもそう簡単にすたれるもんじゃないと思います。けれども、正直なところ、芸の質が低下しているってことははっきりいえます。これは落語ばかりじゃありませんよ。なんの職でも、みんな一様に拙くなってるんじゃないでしょうか。

    あたくしが考えますには、どうも精神力に大きな差があるような気がしてならないんですよ。馬鹿になって、我慢して、一つのことに打ち込んでゆく人が少なくなりましたね。世の中、ソロバン勘定だけでは、つまらないものになるんじゃないでしょうか。

    いかがですか? 生前は、落語協会分裂などに代表される言動で、落語会に様々な問題も引き起こした圓生ですが、上の話にうかがえるのは、落語に限らず、ひとつの物事に精進し続けて初めてお金はついてくるという、至極真っ当でありながら、現代の私たちがすっかり忘れてしまっていることではないでしょうか。ともすれば、運頼みの一獲千金がもてはやされる昨今、圓生の言葉はあまりに地味なのかもしれませんが、大げさに言えば、悪循環に陥っている現在の状況から日本が脱出するための示唆に富んでいるようです。


  • 名残のワルツ

    美しい椿をお客様にいただきました。そろそろ椿も終わりの頃ですから、まさに有終の美ですね。同じ種類をズラリと生けてみました。

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    満開のもの、間もなく花を咲かせるもの、これから成長するもの。うまいこと三拍子揃いました。 カウンター越しに椿のワルツをお楽しみ下さい。

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  • 続:男の人ときもの

    学生落語に時々ハマる私ですが、今は亡き名人のDVDにハマることもしばしば。五代目古今亭志ん朝さんは、素敵ですねぇ。噺についてはもちろん名人ですから、落語素人の私からはコメントするまでもありません。

    目下の楽しみは、高座ごとに違う着物です。志ん朝さんは、まさに粋。江戸小紋のような細かい縦縞で鼠系のお着物をよくお召しでした。それ以外ですと、全く無地のもの。粋でいらっしゃるのですが、品と色香があり、いざ座布団に座された時には、特有の佇まいがあり、この人は絶対に面白い噺を聴かせてくれるに違いないと確信します。 噺の最中に、襟の方が少々着崩れても美しい。何より好きなのは、ソデから座布団まで歩いていらっしゃる、所作。男の着物姿とはこうあるべきだー!といつもホレボレ。 噺とは、座って噺をするだけが噺ではなく、その前後ぜんぶひっくるめて噺なんですね。

    噺家というのは、噺をするから噺家なんじゃなくて、噺てない時にこそその真価が問われるのでしょう。 とにかく私は和服姿の志ん朝師匠に見とれているだけですので、落語についてはどなたか語って下さい(笑)個人的には、「搗屋幸兵衛」が好きです。

    “落語研究会 古今亭志ん朝 全集 上” (TBS)

    “落語研究会 古今亭志ん朝 全集 下 [DVD]” (Sony Music Direct(Japan)Inc.(SME)(D))


  • 二代目と三代目

    先日、学生落語を聴きながら、故二代目桂春蝶さんのことを思い出していました。私は、CDでしか春蝶さんを知ることができませんが、落語を好きになるきっかけを与えてくれた落語家さんです。透き通った声とチャーミングな調子に、いつも元気づけられていました。時々、無性に聴きたくなるのが「猫の忠信」というお噺。ぬくい刺身なんておもしろい言葉が出てきます。お刺身は、冷やしていただくものですが、どうしてあたたかいのでしょうねぇ。気になる方は、CDでお確かめ下さい。

    さて今年、二代目のご子息が三代目春蝶を襲名されるそうです。ご子息の落語は、余韻としてじんわり心に残る心ポカポカ落語でございます。古典が大変にお上手で、私は「七段目」が気に入っています。それから、お着物がよく似合われます。特に、真横から見た立ち姿は非常に美しい!羨ましいなぁと、いつも思います。寄席に行かれた際には、見逃さないようにしてください。真横の立ち姿です。

    桂春蝶(二代目)のCDはこちら


  • メガネと羽織

    昨日は、アクタ西宮で行われていた、関西学院大学、関西大学の落研メンバーによる落語会にふらりと立ち寄りました。その名も「風前の灯火寄席ー最後の悪ふざけー」(笑)。プロのお噺とはまた違う味わいがあり、実はひそかに学生落語のファンです。

    いつも思うことがあります。明らかに寸歩が合っていない、明らかに上等ではない着物を(失礼!)着ているのに、どうして彼らはこんなにカッコイイのか。。。!どうして素敵なの!?ひとりひとりに、きちんと雰囲気があり素敵なのです。たとえ少しばかり噺が面白くなくても、素敵なのです。

    昨日新たに発見したこと、それは、着物にメガネの取り合わせとは意外によかったということ。ふたりの学生さんのお噺を聞いたのですが、おふたりともメガネをかけて登場。ネタが始まると、メガネを外されました。プロの噺家さんが羽織を脱ぐのと同じような感じで。なるほど、カッコイイ!!メガネを取ってもカッコイイ!!噺家さんが羽織を脱ぐ瞬間、いつもワクワクします。着物の雰囲気がガラリと変わって、一度で二度楽しい瞬間。そんなワクワク時間をメガネでも演出できること、実感しました。こんな風に、小さいけれど大きな発見があるので、学生落語はやめられないのです。