• 「食育」「住育」残るは「衣育」

    昨日は住育について書きましたが、昨今、「育」のつく言葉が目につきます。例えば「食育」。きちんと朝ご飯を食べる、病気の人はその病気に合った食事療法をする、子供にはバランス良く食べさせる、大人は自分の体質や体調に合った食事を心がけるなど、食に関するあらゆる取り組みを食育というそうですが、どれもやはりまずは家庭内で実行されなければならないことばかりです。家族の絆がなければ実を結ばないことばかり。

    2月12日のブログでご紹介した辰巳芳子さんの著書『あなたのためにーいのちを支えるスープ』に書かれていることも、まさに食育。大人が子供に食べつかせる、病人を元気にすべく食べつかせる、家族が健康であるために、本当に美味しいものを作る。家族の繋がりを深めるための台所からの思想です。

    さて、「食育」「住育」ときたら残るは「衣育」ですが、こちらは是非、きものの世界から提案をしてみたいと思います。そもそもきものは、代々おくるものですから、家族が基盤となります。これは訪問着だからフォーマルの席に着なさい、これは小紋だからお食事や、簡単なお茶会に、などTPOのことや、染めや織りの名前も合わせて次代におくって欲しい。普段とはちょっと違う、そういった会話からまた親子の絆は深くなるはずです。

    着るということも、家庭内で伝えて行きたいというのが理想です。当店では、いわゆる着付け教室を開設しておりませんが、ご希望されるお客様と一緒に着付けの練習をしています。このやり方が一番正しいやり方ですとは決して言いません。順番と、押さえるべきポイントだけお伝えして、後は回数を重ねてきものに慣れていただく。それが当店のやり方です。きものを傷める小道具や無理な補正は抜きにして、きものと帯の素材感、人それぞれの体型をそのまま活かす自然のやり方です。

    身体で覚えてもらった方法を、それぞれの家庭内で実行していただきたい。お母さんに、お嬢さんに、兄弟姉妹に教えてあげて欲しいのです。それから、お友達やご近所の間で広まるようになれば、なお嬉しい。まず、きものを着ることを家庭内に運んでもらう。その一歩目の種になりたいと思っています。級も資格も取れませんから、着付け教室ではありません。呉服屋は、級や資格よりももっと根本のところ、衣を通じて人と人が育つことを考えるべきだと思います。

    賛成して下さる方いらっしゃれば、是非当店で衣育をご一緒にいかがでしょう。 きものは、着なくなったら不必要なものではありません。着なくても必要なものです。日本の文化ですから。家族の会話の中にあるべきことがらです。


  • 「住育」という概念

    先月のことですが、とあるテレビ番組で「住育(じゅういく)」という言葉を知りました。住育とは、文字通り、住む家に関することなのですが、風水や方角占いによってでなく、ただ家族の絆を深めることを目的として間取りを考えることなのだそうです。

    この住育の理念に基づいて、新築やリフォームを請け負う女社長さんが紹介されていました。 曰く「立派な家イコール幸せな家ではない。家族の絆があって初めて幸せな家である。」例えば、おばあちゃんの部屋を、台所仕事をするお母さんから見える位置に置いてみる。するとお互いに気にかけるようになり、会話が生まれる。例えば、お父さんの席は必ず上座に置き、誰も座ってはいけないところとする。お父さんの威厳を確保すること。例えば、キッチンは対面式にする。料理を介して会話が弾み、自然にみんなが手伝うようになる。例えば、子供の勉強机を隔離した場所でなく大人の目の届くところに置く。見られることによって、子供は勉強するようになり、大人は誉めるようになる。するとまた、子供は頑張る。などなど。

    家族のコミュニケーションが深くなることを第一とする家作りが、今、注目されています。住育は、家を新築する人やリフォームする人たちだけのものかと言えば、決してそうではなく、誰にでも今日からできる住育があるそうです。例えば、玄関。花を飾ったり、子供の描いた絵を飾ったりして明るい雰囲気にする。食事をする部屋にはテレビを置かず、家族の会話もご馳走にするなど。大人も子供も、人として育つことのできる住まい方、いま一度見直してみたいものです。


  • 藤井絞の記憶─好き嫌いをしたらあかん─

    うちで展示会をする時には、藤井絞さんから必ず助っ人に来てくださる人がいました。何十年も、ずっと同じ人。私が小さい頃から自分の子供のように可愛がってくれたその人は、私が大学生になる直前に言いました。「これから大学生になってコンパやなんかでみんなと集まっている時に、食べ物の好き嫌いをしたらあかん。ちょっと苦手なものがあっても、ひと口は食べて付き合いなさい。」と。

    その時は、ただ何となくそうかと思っていたのですが、いざ大学生になり、いろんな人と食事をしたりお酒の席を囲んだりするようになって、ようやくその言葉の意味が分かるようになりました。みんなで同じお皿のものをいただく時に、私これが嫌いと言ってしまったらシラケてしまいます。でも、いつもは食べないけど今日はせっかくだからひと口いただこうかとなると、雰囲気を壊さずにすみますね。

    学生の頃は、相手も学生ですから少しのわがままも通りますが、例えば相手が上司やお客様だったらどうでしょう。シラケさせてはならないと、無理して口に運んだりした経験はありませんか? 体質的に受け付けないものは別として、苦手なものはそうやって段々と苦手ではなくなって行くのではないでしょうか。意外と食べてみると美味しかったり、食わず嫌いだったり。食べ物の好き嫌いがなくなって行くと、人間の好き嫌いもなくなって行くような気がします。

    あの人あんまり好きなタイプじゃないけど、とりあえずしゃべってみようかなとか。しゃべってみると、結構おもしろいなとか。先入観が薄れて行く。 とにかく食べてみようと思う気持ちは、とにかくしゃべってみよう、とにかくやってみよう、とにかく読んでみよう、いろいろな前向きなことに波及する大切な要素だと思います。

    今でも「好き嫌いをしたらあかん」を思い出し、言ってもらえたことに感謝することがよくあります。絞りの素晴らしさばかりでなく、生きて行くのに大事なこと、記憶に残る言葉、たくさん藤井絞さんから教わっています。


  • 藤井絞の記憶─階段─

    長年お付き合いの続いている問屋さんのひとつに、藤井絞さんがあります。それより以前の記憶はないのですが、3歳の頃には確実に「藤井絞」の中にいたことを覚えています。当時から、京都に行くと言えば祖母と母に連れられて問屋さん巡り。ふたりが仕入れをしている間は、何時間もずっと正座をして終わるのを待ちました。

    藤井絞さんには、玄関を上がってすぐに二階へと続く階段があります。二階は仕入れの場所、一階は私が待つ場所。祖母と母が階段を上がることは、私にとってはお行儀よくしなければならない時間がやって来ることを意味し、子供ながらに結構な覚悟をしたものでした。その階段は、大人の世界と子供の世界を分ける境界線、大人になれば上ることのできる希望のようなものでした。

    今、年齢だけは大人になった私は、もちろん二階へ通してもらえるのですが、嬉しい反面、身の引き締まる思いがします。子供の目線で見上げた階段は、とても高く大きく、まさに大人の象徴でしたが、当時心に描いていた大人像に近付くには、まだ時間がかかりそうです。いつか自信を持ってこの階段を上りたいと、いつも思います。