藤井絞の記憶─好き嫌いをしたらあかん─

うちで展示会をする時には、藤井絞さんから必ず助っ人に来てくださる人がいました。何十年も、ずっと同じ人。私が小さい頃から自分の子供のように可愛がってくれたその人は、私が大学生になる直前に言いました。「これから大学生になってコンパやなんかでみんなと集まっている時に、食べ物の好き嫌いをしたらあかん。ちょっと苦手なものがあっても、ひと口は食べて付き合いなさい。」と。

その時は、ただ何となくそうかと思っていたのですが、いざ大学生になり、いろんな人と食事をしたりお酒の席を囲んだりするようになって、ようやくその言葉の意味が分かるようになりました。みんなで同じお皿のものをいただく時に、私これが嫌いと言ってしまったらシラケてしまいます。でも、いつもは食べないけど今日はせっかくだからひと口いただこうかとなると、雰囲気を壊さずにすみますね。

学生の頃は、相手も学生ですから少しのわがままも通りますが、例えば相手が上司やお客様だったらどうでしょう。シラケさせてはならないと、無理して口に運んだりした経験はありませんか? 体質的に受け付けないものは別として、苦手なものはそうやって段々と苦手ではなくなって行くのではないでしょうか。意外と食べてみると美味しかったり、食わず嫌いだったり。食べ物の好き嫌いがなくなって行くと、人間の好き嫌いもなくなって行くような気がします。

あの人あんまり好きなタイプじゃないけど、とりあえずしゃべってみようかなとか。しゃべってみると、結構おもしろいなとか。先入観が薄れて行く。 とにかく食べてみようと思う気持ちは、とにかくしゃべってみよう、とにかくやってみよう、とにかく読んでみよう、いろいろな前向きなことに波及する大切な要素だと思います。

今でも「好き嫌いをしたらあかん」を思い出し、言ってもらえたことに感謝することがよくあります。絞りの素晴らしさばかりでなく、生きて行くのに大事なこと、記憶に残る言葉、たくさん藤井絞さんから教わっています。


藤井絞の記憶─好き嫌いをしたらあかん─への2件のコメント

  1. アバター カリブ
    カリブ コメント投稿者

    素敵な教えですね。
    私は個人的にあまり好き嫌いがなく(貧乏性なもので)、
    虫でも食べれます(たぶん)。
    同席している人が、残していたりするのを見ると、
    もったいない気持ちになります。
    ピザの耳とかお肉の脂身のところとか。
    お料理を作る側から、
    みていると、
    もったいない気持ちになりますよね。
    いたしかたない事もありますが笑。
    中国では一口残すのが礼儀といいますが
    それは別として、
    食べる楽しみを共有して、
    また絆が深まる機会が多いように感じます。
    私は骨のある魚が苦手なのですが、
    味は好きですが、骨が苦手で、
    でも、猫ちゃんのようにきれいに食べる人をみてから、
    私もこんな風になろうと格闘しているところです。

    よく師匠に、好き嫌いしてはいけないと
    いわれ、
    無理矢理、大嫌いだったウナギを出されたことがあり、
    それ以来、ウナギも大丈夫になりました。

    そういう教えを昔の人は普通にいっていたんだなあと思います。

    それに食わず嫌いしていたものも、
    一口食べてみればどうってことない新たな発見があるかもしれませんよね。

    それに嫌いなものがあると、
    先方に迷惑をおかけすることが多々ありますよね、
    あの子はこれを食べれないからこのお店はだめだ、
    とか。
    そういう壁がない人のほうが、
    むしろこの世の中を有利にわたっていけるのではないかと、
    ふと思いました!

    今後も好き嫌いのない世の中になりますように。

  2. アバター miccho
    miccho コメント投稿者

    そういえば、師匠のお宅で焼き魚と格闘する時間、ありましたねぇ。。。師匠にもいろんな大事なこと教わりましたよね。人の好意には素直に甘えなさいとか。頂き物は、好きなものでなくとも嬉しい顔で受け取りなさいとか。懐かしい。叱られても叱られても大好きだったのは、それが愛だと分かっていたからでしょう。今は、真剣に叱ってくれる人がいなくて何だか寂しいです。