美しい椿をお客様にいただきました。そろそろ椿も終わりの頃ですから、まさに有終の美ですね。同じ種類をズラリと生けてみました。
満開のもの、間もなく花を咲かせるもの、これから成長するもの。うまいこと三拍子揃いました。 カウンター越しに椿のワルツをお楽しみ下さい。
富山県氷見市の呉服屋 きものの館絲穂
入学シーズンです。桜の季節でもあります。皆さまの心に残っている桜の風景、始まりの風景とはどのようなものですか。
私にとって桜とは、母校、関西学院大学へと続く桜並木です。そこで出会った恩師に教えられた「神は細部に宿る」という言葉を、桜の頃になると毎年心で唱え直します。
「神は細部に宿る」とは、レポートや論文のテーマを決める時のアドバイスとして教えられたものです。面白いテーマを決定するためには、大きな部分を見るのではなく、例えば文章の中で繰り返し使われている言葉や表現などの、小さい部分、細部をまずよく見てみなさい。そこから、大きく面白いテーマを導きだすヒント(神のようなもの)が立ち上ってくるはずだと。初めて教えられた日から、この言葉は私にとっての指針となりました。何かを決めたい時、迷った時、自分を信じたい時、いつも立ち戻るのはこの言葉。 大学では英文学を専攻、現在はきものに携わっている身ですが、まったく異なる世界のように見える文学ときもの、これほどまでに似た世界はないといつも思います。
きものは、まさに細部の世界。一反の布には、染色というレベル、柄のレベル、技法のレベル、糸のレベルなど、様々な細部のレベルがあります。それぞれの細部が意味を持ち、文化的背景を持つ。それぞれの細部に宿る職人さんの技術は、まさに神業。細部が集まったきもの一反は、大きなテーマと言えましょう。
文学作品は紙に文字が書かれたもの、きものは布に模様や色と言った記号が描かれたもの。読み解く対象が紙から布に変わっただけで、取り組み方は学生時代とまったく同じ。いつも心には「神は細部に宿る」という言葉。桜の頃になれば、これからもずっと唱え直される色褪せない言葉です。 自分にしか見えない小さいものを探し、継続し、大きな結果が出るまでじっと待ってみる。つい自分と誰かを較べそうになった時に、支えてくれる言葉です。
昨日に引き続きまして、津曲語録をご紹介します。今日の語録は、呉服業界にもどの業界にも当てはまる深いお言葉です。
タイトル;変わるものを追いかけてはいけない
「モノを作っていく上で、流行しているものを追いかけたり、ただ形をまねするのではなく、伝統を知ったり、素材を知ることの方が大切です。そういう物事の基本になるものを知ることで、初めて応用させることができ、そこに独自性が生まれます。本質というものは、原理原則を追求したあとでようやくわかってくるものなのです。」
大抵どのお菓子屋さんにも、これはずば抜けて美味しいけれどこれはイマイチといったように、商品によってズレがあると思いますが、津曲さんのお菓子は、どれを食べてもツマガリの味をしています。舌が肥えているわけでもないのに、偉そうなことばかり書きますが、本当にそうなんです。舌が素人の私にも分かります。クッキーにも、パイにも、パウンドケーキにも、それぞれの美味しさがありますが、どれにも同じ基本の味のようなものを感じます。どれを食べても外れはない安心感です。語録にあるように、素材や基本を大切にされている社長の理念が、きちんと味に表れています。
甲山想い出小石という名のマカロンがあります。昨今のマカロン流行りで、色とりどり味もいろいろのマカロンを置いている店ばかりの中で、ツマガリさんのマカロンは究極にシンプル。ガナッシュチョコレートをアーモンド風味の生地で挟んだもの、ただ一種類。これが絶品です!冬季限定の販売ですので、来年をこうご期待。いつか自分ならではのマカロンを作りたいと、社長が20年越しで作り上げたものなんだそうです。何でも、本当にいいものは、たくさん作れないものなんですよね。
西宮市は甲陽園というところに、洋菓子専門店のツマガリがあります。神戸に星の数ほど洋菓子店あれど、ここの焼き菓子には敵わないと思っています。定期的に、新商品やオススメ品の案内が届くのですがそこに社長である津曲さんの「津曲語録」が載っています。今日、明日とその一部をご紹介します。 本日は「好きな仕事に出会えた人は幸せ、また、好きになることも大切」というタイトルで始まるエピソードです。
「私が若い時、運搬の仕事やさまざまな仕事を経験してからようやく洋菓子の仕事に出会いました。今から思えば、その当時に養われた強靱な体力や反骨精神が糧となったからこそ、この仕事に出会うことができ、続けて来られたのでしょう。コンテストに入賞してからというもの、寝ても覚めても考えるのはお菓子のことばかり。何事も一生懸命になることから道は拓けると思っています。」
一生懸命という言葉通り、津曲さんのお菓子は誠実です。いつ食べても裏切らない、贈り物にしても必ず喜んでもらえる、そんな誠実な味がします。きっと誰が食べても美味しいと言うに違いない味なのに、決して大衆的な味ではありません。かといって、素朴とも違う。何かがあるんです。それが、他の人には真似できない感性なんでしょうね。津曲さんの歩んで来られた人生の中でしか出せない味なんでしょうね。
個人的な感じ方ですが、津曲さんのお菓子はシンプルです。素材の良さを大切にしたシンプルさ。素材に誠実。それが飽きない理由なんだと思います。なかなか本店まで行けない私は、いつも大阪の大丸デパートの地下で入手しています。大阪駅の方まで行かれた折には、是非お土産に買って帰って下さい。店舗をたくさん持たない、ケーキなどの生菓子は本店でしか売らないやり方も、魅力のひとつです。
今週は、こちらの絞りの座布団がよく活躍しました。(つまり、来客が多かったということです。)お茶席用の座布団として作られているものですが、和洋折衷、どのような空間にもすんなり溶けこみ、座る人間の心地も良くしてくれる強者です。何より、染めの美しいこと!目を惹くので、座布団のことをまず聞かれます。ひとつ話題が生まれます。そこからまた会話が始まります。心が和みます。絞られている柄は円ですね。円滑に事が運びますように。座った人たちのハートがの○になりますように。そんな時のお助け役でございます。こちらの五色ひと組で別注を承っております。
来客を理由にサボりがちだったので、明日からの週はがんばります。
近頃、映画「おくりびと」の影響で、生きること死ぬことが見つめ直されているようですね。
今日は、生と死に対する個人的な考えを書いてみようと思います。私が初めて人に死に直面したのは3年前。祖母の死でした。入院しほとんど寝たきりになっている祖母の様子を毎日見る中で、まず命の強さを感じました。食べ物が喉を通らなくなっても、衰弱し切っていても、呼吸をしている限りは生きている。寿命が来るまで命が存在する。生きるとは、なんとしんどい行為であるかということを見せつけられました。同時に、こんなにも強いものがストップしてしまう、死とはいかにしんどいことかと思いました。生きることと死ぬことは、もしかして同じことなのではないか。そんな思いが心に浮かんだ時、一冊の本に出会いました。
柳澤桂子著『生きて死ぬ智慧』です。日本を代表する生命科学者である氏が般若心経に解釈をつけたものなのですが、感銘を受けた私はそれから、死に向かう祖母の側で、その般若心経を実際に書き写してみることを始めました。すると、生死に対する自分なりの感じ方ができあがって行きました。生きることと死ぬことは、やはり同じこと。ただ、肉体として「ある」か、魂として「ある」か。この世は目に見えている、あの世は見えない。ただそれだけの違いではなかろうか。この世での姿かたちは仮のもので、本来は誰しも空(くう)の状態であり、死とは魂(=空)としての出発なのだと。
祖母が亡くなって数時間後、あらためて顔を見るとそこに横たわっているのは確かに祖母でしたが、その顔は私が初めて見る表情をしていました。きっと、こんな顔で生まれてきたんだろうと思わせるような、赤ん坊のような可愛らしい顔をした祖母がいました。きっと、あの世で生まれ変わったのでしょう。死は出発点であることを実感しました。今日は祖母の月命日です。もうすぐお経が上がります。
今日は啓蟄です。虫たちが土から這い出てくる日とのこと。まだまだ寒さは続きますが、見えないところで春は着実に近づいて来ているのでしょう。
作家の幸田文氏は著作『季節のかたみ』の中で三月を「ものの始まろうとする月、動きだそうとする月、気鋭の月」と表現しています。絲穂のカエデの木々も今はすっかり葉の落ちた状態ですが、時々、山鳥のつがいが止まり何かをついばんでいます。新芽をつついているのでしょうか。私たちの目には簡単に見えませんが、自然の生き物たちには木々の新しい生命がはっきりと見えているのでしょう。自然は、感じ取る春があることを教えてくれます。