• 紅白歌合戦に思う

    少し前の話題になりますが、昨年の大晦日も紅白歌合戦を愉しみました。歌手の皆さんの衣装が気になるんですよね。やっぱり着物が。今回は、着物、帯そのものよりも、帯揚げ帯締め、重ね襟の色遣いが非常に大きな役割を果たしているということを改めて実感しました。いいなと思ったポイントを、私なりに挙げてみます。

    まずは、司会の仲間由紀恵さんがオープニングで着ていた友禅の振袖コーディネート。疋田絞りの帯揚げが効いていました。視覚的に、友禅は平面的、絞りは立体的です。友禅の着物を纏う場合、帯揚げに絞りを持ってくることで、着物と帯の間に立体感ができ、コーディネートにメリハリがつきます。特に、振袖のようにボリューム感を出して華やかに演出する場合、この平面+立体コーディネートは、覚えておくといいでしょう。

    それから、演歌歌手の皆さんの着こなしですが、全体を通して重ね襟、帯締めにブルーや紺を合わせるコーディネートが多かったように思います。ステージに立つ場合、盛装の場合、迷ったら「青」というのは、当店でもよくお客様にオススメしているやり方です。青系は、意外と何色にもいけるんですよ。パッと華やかな印象に変えたり、キュッと引き締め効果を出したり、お助けカラーです。

    そして、石川さゆりさんのお着物姿がやはり素敵でした。白地にブルーの飛び柄、小袖模様の帯。帯締めは濃紺でビシッと。古典的でモダンで、垢抜けた着こなしでした。さゆりさんの内側にあるクオリティと、身に付けているもののクオリティが、ぴったり合っているんですよね、いつも。つまりそれが、本当に「似合っている」とか「着こなしている」ということなのですが、石川さゆり像は揺るぎないですね。

    今月は、成人式や初釜、新年会と和装のシーンがたくさんあります。小物で大きく印象が変わるコーディネート、じっくり考えて愉しい着物の時間をお過ごしくださいませ。


  • ご来店ありがとうございました

    昨日は、今年最初の営業日でした。たくさんのお客様にご来店いただき、縁起の良いスタートとなりました。皆さま、ありがとうございました。

    さて、今年の年賀状ですが、着物は辻が花の訪問着、帯はひなや製組み紐の袋帯という組み合わせでした。昨年より二階に展示しておりましたところ、皆さまより大好評をいただきました。訪問着の作家は実力派、小野順子さん。女性らしい優しく上品な作風が特徴です。


  • J. S. Bach と光悦ー元日クラシックコンサートー

    さて皆様、元日はいかがお過ごしでしたでしょうか。私は京都ハイアットリージェンシーホテルにて行われました、クラシックコンサートを聴くチャンスに恵まれました。ただのコンサートではありません。音楽と着物のコラボレーション。同じ時代に西洋と東洋で存在した音楽の父バッハと、琳派の創始者である本阿弥光悦、ふたりの残した文化の軌跡を同時に体感できる企画でした。ホールに入ると、光悦時代の代表的な文様を、染め、織り、絞り、様々な技術で表現した着物や帯が展示されており、コンサートまでのひと時を和のモードでゆったりと過ごせます。

    いざコンサートの開始です。今回は、バッハの時代にピアノは存在しなかったということで、チェンバロが用意されました。初めて聴く繊細な音色は、今でも耳に残っています。第一部では、ヴィヴァルディの四季を春夏秋冬とおして聴くことができました。しかも、解説付きです。例えば、春では小鳥のさえずりが楽譜に書き込まれているのですが、まず、さえずりの部分だけを聴かせてもらい、演奏に移るという段取り。クラシックは好きでしたが、今までは音としてだけ捉えていたので、きちんと音の表現する意味やドラマを教えてもらえたことが、とても嬉しく新鮮でした。秋の場面では、収穫の秋ということで、祝宴をする人々の中に酔っ払いがいて、その気持ちよく千鳥足になっている様子を表現した音がありました。面白いですね。こういうことを、ひとつでも多く分かっていたら、精神的にとても豊かになれるのだろうと思います。演奏中にずっと感じていたことは、音楽も着物も同じだということ。楽譜に小鳥のさえずりが書き込まれているのと同じように、着物にはその時代や文化を象徴する文様が表現されています。着物は、読み解くものでもあるということを、強く感じました。

    さて、この素敵な企画に関わっていらした藤井絞の社長さん。縁起のひょうたんなまずの羽織でお越しでした。男性の羽織は、いろいろに遊ぶことができて本当に愉しみですね。

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  • 三遊亭圓生のことば

    久々の「裏管理人」でございます。これまでは、氷見に来た時にのみ、このブログを乗っ取って更新していたのですが、micchoが26日に書いたブログの記事を見て、ふと、先日亡くなった五代目三遊亭圓楽の師匠である、六代目三遊亭圓生のエッセイを思い出したので、かいつまんで「抄録」という形で以下に載せておきます。話題の中心は、まさに「おあし」についてです。

    こういう言い方はおかしいかも知れませんが、最近は本当の馬鹿が少なくなりましたですな。どちらを見ても、どうも小利口なやつばかり多くって、つまり、今のお若い人は「おあし」のことばかり先に言ってね、銭を取ることを先ず先に考える。じゃあ、お前達はどうなんだって言われると、わたくしどもも若いときはやっぱり貧乏してましたから、早くお銭(あし)を取りたいと思いましたよ。そりゃあね、誰だって同じで、金は欲しい。

    でも、あたくしなんざ「金が欲しい」なんてことを言うと、こっぴどく叱られたもんです。「金なんてものは、芸が出来りゃ、黙ってても向こうから払ってくれる。そんな拙い芸で銭を取ろうったって、無理だ」言下にそう言われた。

    ところが、いまの若い人は、「芸なんぞべつにうまくならなくたって」てんで、手っ取り早い僥倖ばかり狙って、コツコツという感じの本当の勉強をしようとしない。 そんなことは面倒くさいんでしょうな。何をやってもいいから、とにかく銭を取ることを狙う。「銭さえ取ったら、それから後に、ゆっくりと勉強が出来る」という考えなんですな。

    あたくしなんかも、やっぱり若いときはそう考えました。どうしてこんなに貧乏しているのか、それがいやだったですよ、貧乏が。金が出来て、もう少し楽になったら、 もうちっとましなところへ行けるだろうし、後顧の憂いもなく勉強も出来るし、うまくもなれるんだ。そう思ったものです。ところが、現実には金が取れない。 しかし、よく考えてみたら、金を取れないほうがいいんです。何故かってえと、貧乏しているといやでも芸をおぼえるからです。現実に金がなけりゃ、結局、どうしようもない。勉強して、何とかなるよりしようがないから、それでやむを得ず勉強をする。

    あるとき、若い噺家が、「師匠の言う芸というのは、下からだんだん積み重ねてゆく、いわば頂点をきわめるのに、一段一段、階段を下から上がっていくようなものな んでしょう? あたしは頂上へ行くのに、そんなことはしないで、エレベーターで上がるように、すうっと、一気に上がりたいんです。一度上がってしまえば、たとえ悪くなっても、下がるときには、徐々にしか下がらない。そのほうが得でしょう」とこう言う。

    一度得た地位を維持できなくてもいいから、ともかくパーッと上がって、早くお銭(あし)を取りたいと言うんです。合理的といえば合理的。つまり、金銭の勘定だけからいえば、利口ですよ、その方が。人気が出たとき金を儲けておいて、その金でアパートでも建てておく。そうすりゃあ、家賃のあがりで、あとは生涯、十分に食っていけるじゃないか、といういうんですが……、しかし、芸人としてこういう考えは、あたくしははなはだ情けない料簡じゃないかと思う。あたくしどもは芸が好きで、それをやりたいから芸人になったんですからね。アパートのあがりで食うんだったら、旅館かどこかに奉公して、金をこさえてやりゃあいいんですよ。

    あたくしはやっぱり、乞食をしてもいいから、生涯、自分がこれと目指した業を続けて、それでめしを食うってことの方が立派な生き方じゃないかと思います。家賃のあがりで食うなんてえのは、それはもはや、おのれの初志とまるっきり違ったことをしてるわけなんですから、これほどみっともないことはないんじゃないか…… たとえお客の質が変わっても、いいものはいいという、こりゃあ変わらないだろうと思います。いかに世の中が変わったって、拙いものがよくっていいものがだめだという、そんな時代が来るわけがないですよ。食うものにしろ、着るものにしろ、芸にしろ、やはりいいものはいいんで、これはいいからだめだ、なんてえのはありません。

    ですから、あたくしには、いまの若い人の考えというのは逆だという気がしますね。世の中、銭勘定だけじゃだめだってことに早く気づいて、ある意味での危機感を持たないと、落語という芸そのものがすたらないとも限りません。

    落語なんて、つまらない単純なもののように思われていますが、ちゃんとした歴史と伝統があるんですから、どんな時代になってもそう簡単にすたれるもんじゃないと思います。けれども、正直なところ、芸の質が低下しているってことははっきりいえます。これは落語ばかりじゃありませんよ。なんの職でも、みんな一様に拙くなってるんじゃないでしょうか。

    あたくしが考えますには、どうも精神力に大きな差があるような気がしてならないんですよ。馬鹿になって、我慢して、一つのことに打ち込んでゆく人が少なくなりましたね。世の中、ソロバン勘定だけでは、つまらないものになるんじゃないでしょうか。

    いかがですか? 生前は、落語協会分裂などに代表される言動で、落語会に様々な問題も引き起こした圓生ですが、上の話にうかがえるのは、落語に限らず、ひとつの物事に精進し続けて初めてお金はついてくるという、至極真っ当でありながら、現代の私たちがすっかり忘れてしまっていることではないでしょうか。ともすれば、運頼みの一獲千金がもてはやされる昨今、圓生の言葉はあまりに地味なのかもしれませんが、大げさに言えば、悪循環に陥っている現在の状況から日本が脱出するための示唆に富んでいるようです。


  • おせち料理

    今年も残り数日となりました。おせち料理の準備はお済みですか?

    毎年わが家のおせちは、お隣の割烹しげはまさんにお願いしています。うちのお客様の分も一緒に。大晦日ともなると、きれいにお料理が詰められたお重がたくさん絲穂に届けられ、一気に店内がお正月気分になります。

    というわけで31日大晦日も絲穂は、お重を取りにいらっしゃるお客様や、ご丁寧に年末のご挨拶に見えるお客様などで、夕方まで慌ただしい時間が流れます。今年最後のお客様がお帰りになると、無事に一年を終えることができたという安堵感、心地よい疲労感に包まれます。私にとっておせちのお重には、見えない形ではありますが、このほっとした気分も一緒に重ねられているような気がしてなりません。


  • お金はお足と言いますが

    祖母や両親からよく言い聞かされてきたことです。「お金には足がついていて、好きじゃない人の元からは、すぐに逃げて行くんだよ。だからお足と言うんだよ。」

    殊に祖母は、本当によくお足の話を聞かせてくれました。どうすれば、お足に好いてもらえるのか。自分でしようと決めた買い物には、きちんと支払うこと。今まで手元にいてくれてありがとうという感謝を込めて、きっぱき、すっきり、モノと交換する。そうすれば、必ずまたお足は、自分のところに戻ってきてくれる。お札の顔はきちんと揃える。しわくちゃのお札はアイロンで伸ばすなど。

    出し惜しみすれば来てくれず、貯め過ぎては反動でとっとと逃げて行ってしまうという、なかなかお付き合いの難しいお足さんですから、好かれることは、もひとつ難しいことでしょう。お金の使い方、使い道に悩み多きこのご時世、節約や安売りの文字を見る度に、祖母のお足談を思い出します。難しいことでしょうけれど、とりあえずは、お足に好かれることを考えてみる方が賢明かもしれません。